『ギリシャ語の時間』 ハン・ガン
ときどき、不思議に感じませんか。私たちの体にまぶたと唇があるということを。それが、ときには外から封じられたり中から固く閉ざされたりもするということを。私が「中動態」という概念を知ったのは、この、ハン・ガンの『ギリシャ語の […]
『菜食主義者』 ハン・ガン
暴力に抗うことすらできずに、その力の及ばざる場所でそれでもなお生きようとした時、究極、人は植物になるのやも。生きることそのものの「原罪」を問われているようだ。この身体に、何がしかの生命が犠牲になって注がれるおぞましさ。ひ […]
いつかはすべて忘れてしまい、いつかは跡形もなくなってしまうのなら、私たちは何のために生まれ、懸命に生きるのか。 そんな考えても仕方のない問いが時々、こころに浮かんでは消えていきます。 そんな時「誰のものとも判別不能な真実や生きた証が何層にも織重なるように溶け合って、明日の世界を支えるのなら、私なりに精一杯生きてみたい」とも思うのです。先人たちがそうしてくれたように。 りつこさんの記事の最後の一文を読んで、時折、自分の中に生じる その感覚を思い起こしました。
自分より先を行く誰かがいてくれるから、重く不安な一歩を踏み出せるのでしょうね。 プールの端から端まで、同じコースを何度も何度も泳ぐスイマーたち。 人生のようだと思いました。
生き物が生きて死してなお、その肉は食らったものの命をつなぎ、皮はなめしたものの体を温めそのものが生きた意味をなす。命は消えずつながり、また次の命となる。 あなたは私。私はあなた。 愛おしいと抱きしめてくれてありがとう。
愛おしいと、泣いてくれてありがとう。 純然たる愛がここにあると思える人生を、 ありがとう。