正倉院展と関連して読んだ本『唐物と東アジア ― 舶載品をめぐる文化交流史』
先月、奈良国立博物館で開催された「第77回正倉院展」にいってきました。展示される正倉院宝物には「唐物」が多いので、以前レポート作成時に使った文献を久しぶりに読み直しました。その前に正倉院展について簡単にレポートしておきま […]
読みました『同調者』モラヴィア
先日、イタリア文学を読む読書会に出席しました。テーマ本はモラヴィアの『同調者』でした。文学は得意ではなく、ふだんはほとんど読まないのですが、課題本が決まっている共読会は、いつも新しい発見を与えてくれる貴重な機会だと思い参 […]
はじめまして
こんにちは。HONBAKO北堀江店で箱主になりました、シンです。先日、はじめてのラインナップを並べてきました。もともと本はできるだけ手元に置いておきたいタイプなのですが、気づけば本棚の空きがなくなり、積読も増える一方で、 […]
僕らの若い時分は〝アメカジ〟でした。 中学くらいからアメ村とか出かけていって、数多ある古着のなかから自分でどんだけ個性的なチョイスが出来るか、みたいなことがテーマであったような気がします。 時代が過ぎて、〝多様性〟や〝ゆとり〟のようなことが言われ、自由の範囲はより多く与えられるようになったのに、若い世代のひとたちは(ファッションだけに留まらず)どんどん〝均質化〟に絡め取られていったように僕には見えました。 個性も均質も、時代によってつくられて行くもんなんですね。自分も含めてですが、ひとってつくづく不思議なもんだなぁと思います。
アメカジ、懐かしですね~ ラルフローレン、トミーヒルフィガー、ノーティカとか着ていました。 たしかに「多様性」や「個性」という言葉をよく耳にしますね。 みんなが「自分らしくあれ」と言い、「多様性を大切に」と掲げていますが、ふと見渡してみると、どこか似たような「個性」ばかりが並んでいる気がします。 SNSを開けば、“自分らしい”ファッションやライフスタイルが溢れていますが、それらはすでに定型化された「個性のテンプレート」になっているようにも見えます。つまり、「多様であること」が新しい同調圧力になっているようにも思えます。 本当に多様であるとは、単に違いを演出することではなく、社会の枠に流されずに“異質さ”を保ち続けることなのかもしれまいですね。
高校を卒業して、何年か経って母校で制服廃止委員会が発足したと聞いて驚いた時のことを思い出しました。 私は個性を消してくれる制服が楽でいいなと思っていたから。 制約のある中での、オシャレを楽しむくらいが当時の私には気楽でした。 ユニクロの(大量生産の)服にもそういう部分があるのかなぁ。
制服は服装の中でもその中でも特に「秩序」や「立場」をはっきり見せる役割を持っていると思います。固い言い方をすれば制服は「個人の差異を消去し、集団への所属を明示する装置」と言えると思います。 みんなが同じ服を着ることで安心感や一体感が生まれる反面、個性が消えてしまうように感じる人もいますよね。 因みに私も中学生時は朝服装を選ぶ必要ない制服は楽で良かったと思いました。
若かりし頃、アパレルショップでバイトをしていた時があります。バイト代はもれなく服代に消え、それでも着たい服を着る満足感に満たされていました。 ちょうどそんな時、村上春樹の「村上朝日堂」だったかな、その中に「全裸家事主婦」という話があり、ショーゲキを受けました! 何も身につけずに寝る方は少なからずいるとは知っていましたが、全裸で家事!? その時の私には信じられず、自分には無理だと思いました。が… 今となっては、身につける色々なモノが煩わしく、裸で暮らせたら気持ちいいだろうなと思っています。 ただ、寒がりで、ケガも怖いですし、裸になる勇気もないので実行は出来ませんが。 ほどよく暖かい無人島に流れ着いたら、裸族になるかもしれませんが、きっと虫が嫌だとか言って、早々に葉っぱで服を作ってしまったりしそうです。 文化として、機能としての衣服、ファッションについて考えると自分の思考の変化にも気付き、大変面白く感じました😊
ありがとうございます。 「全裸」ですか・・・それはインパクト絶大ですね 人間が裸で暮らしていた状況から服を着るようになった理由には、怪我や体温調整といった身体的保護だけでなく、文化性・社会性、そして自我の発達といった精神分析的観点を含むさまざまな研究があるようです。